SPEEDEMONの活動記

主にクルマ(愛車は初代VMGレヴォーグGT-S D型)にまつわる出来事を中心に綴りますが、私生活の出来事も動画UPや、一個人の感想を交えて語ります。

長崎への車中泊での旅⑱3日目-世界文化遺産を遠くから

(前回の続き)


11時過ぎに原爆資料館と平和公園見学を終えて神妙な気持ちになって後にし、
次に目指すは、世界文化遺産を見たいが為に今回は長崎に行きたかったです。
それが何かと言うと、お判りの方もいらっしゃるでしょうが、
『端島』です。


端島ではピンと来ないと思います。
別名、『軍艦島』です!


軍艦島に行く10日ほど前に、
軍艦島に上陸出来るのか否かをウェブサイトで調べたら、


完全予約制と知り、特にGW中に行こうものなら
既に予約が一杯で上陸が叶わない現実も知り、
それを解った上で陸地から一番近くから見える所から見たい!
との想いで、遠くから見える場所を目指し、
一路、長崎市を南下することにしました。
端島(軍艦島)の位置は、ここです↓

拡大して解りにくいですが、ここは長崎市南端に位置し、
島原半島の最南端よりも南にあるため、
長崎県の最南端とも言えます!


平和公園から距離にしておよそ50㌔。
どこから見るのが最適なのかを知らずにひたすら南下しました。
レヴォーグを走らせること約2時間で野母崎付近に入ると、
この日は日柄が良く、右手に軍艦島がうっすらと見えてきたではありませんか!
そのまま走ると軍艦島資料館が見えたので、
ここでクルマを止めて見学することにしました。
そして、館内を見学することに。


館内の撮影は禁止のため、入口付近のみの撮影に留まりました・・・


曲がって見苦しいけど、小冊子を貰いましたので御覧下さい↓

そのため、言葉で簡単に説明します。


軍艦島は、明治時代から昭和時代の間に日本有数の炭鉱地として採掘された島で、
当初は今よりも小さい島でしたが、
炭鉱が栄えるに連れ移住者も増えたために島を埋め立てたことで、
当初の約3倍の面積まで拡張した島です。
最盛期にはこの小さい島に人口が5,000人を超えた時もあり、
当時の人口密度は東京よりも多く、「日本一」だったそうです。


日本初の鉄筋コンクリートで建設された建物がひしめき合い、
その形状を陸地から見ると、島の中心部に高層建物が並び、
島の両端に向かって建物が低く見えることから、
その様が軍艦のようだと、当時の新聞に載ったことで有名になり、
今に至るのであります。


当時の島内の生活は日本の中でも最先端で、
家電製品の普及率も日本一、小さい島の中には数多くの娯楽施設や商店街もあり、
かなり活気のある生活だったことを伺わせます。


ただ、生活基盤となる産業は『炭鉱』のみのため、
労働条件は当然『過酷』!!
労働者は日々「生と死」の間に立っていることが写真でも判り、
自分の魂を掛けて日本の重工業を支えていたことも解りました。
なんて崇高な考えは無かったんだろうと思いますが。。。


これは想像ですが、当時の手配師に口八丁手八丁で騙されて連れてこられた人、
首が回らないほど借金を抱え・抱えさせられ、その形で連れてこられた人
(ちょっと古いけど、マグロ漁船や臓器売買など)も
大勢いたのではと想うと、胸が痛くなりました。
ガス突出事故も度々起こり、事故で亡くなった方は
近くの「中の島」で葬られたそうです。


今のブラック企業も真っ青な過酷な労働で、
夜逃げなどの逃亡者を防止するため、
採掘当初は経営側は賃金を「円」で支給せず、
島でしか通用しない通貨で支給し、
労働者の人員確保という名の『拘束』をしていた
ことも知り、
驚く事実がたくさんありました。
しかもこれが戦後以降も続いていたと言うから、
二度も驚き!!
この島は半ば、刑務所のような気がしました!


ココだけではないけど、
日本の至るところでの過酷な現場が当時の日本の産業を支え、
現代の産業発展に繋がる礎を築いたと想うと、
その庇護で自分は生きていることに気付き、
感謝の気持ちが込み上げました。


先人無くして今の日本は無いのではないか!?


そう思いながら資料館を後にしました。


陸地から見た軍艦島を2枚載せました。

次回の長崎の旅は、絶対にここに上陸したい気持ちが強くなりました!!


(今日はここまで)
よろしくどーぞ!